ミニマリストを目指して余計な物を手放しつつある人、あるいは、すでに物を減らし終わってミニマリストを名乗っている人も多いことだろう。
しかし、物を減らしてミニマリストになることが、果たしてゴールなのだろうか。
私はそう考えていない。
ミニマリストのその先に、さらに目指すべき姿があるはずだ。
今回は、私が考える「ミニマリストのその先」について述べてみようと思う。
綾波レイはミニマリストか
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクターに「綾波レイ」という人物がいる。
彼女が住んでいるのは、コンクリートむき出しの壁に、ベッドや冷蔵庫・椅子など、最小限の物だけが置かれた殺風景な部屋である。
このような部屋に住んでいるため、綾波レイとミニマリストを重ねてみている人も多いことだろう。
しかし、綾波レイとミニマリストには決定的な差があると私は考える。
彼女は「いかに物を減らすか」ということを考えて、このような部屋に到達したのだろうか。
おそらくそうではないだろう。
(アニメの中のキャラだから、本当のところは不明だが。)
アニメを見る限り、彼女は自分の使命をいかに果たすか、ということしか考えていない。
つまり、自分のやるべきことに集中した結果があの殺風景な部屋であり、それはミニマリストの行動と完全に順序が逆なのである。
ミニマリストもマキシマリストも結局同じ
多くのミニマリストが、物を手放す素晴らしさを実感し、また、それを人に説こうとしている。
それは一見、物を手に入れることで満足感を得ようとする「マキシマリスト」と正反対の生き方のように見える。
しかし、ミニマリストとマキシマリストで共通している点がある。
それは、どちらも意識が「物」に集中していることである。
マキシマリストは「物」をいかに手に入れるかを考え、ミニマリストは「物」をいかに手放すかを考えている。
どちらも頭の中にあるのは「物」だ。
手に入れるか、手放すかの違いでしかない。
どちらも思考が「物」に支配されているという点では同じなのだ。
そしてそれこそが、ミニマリストと綾波レイの決定的な違いである。
「物への思考」を手放す
多くのミニマリストが、思考を「物」に支配されている。
いかに「物」を減らすか。
いかに小さい「物」を所有するか。
自分のお気に入りの「物」は何か。
効率よく生きるための「物」は何か。
物、物、物・・・
素晴らしいと思っていたはずの生き方は、頭の中を「物への思考」で埋め尽くされ、結局はほかの人と何ら変わりない。
そしてそれは、綾波レイの生き方の足元にも及ばない、と私は思う。自戒の意味も込めて。
「物」を手放してミニマリストになることが最終目標ではない。
「物への思考」が無くなり、やるべきことに意識を集中させることこそが、真の目標だと私は考える。
「物」を手放すことは「物への思考」を手放すための前段階に過ぎないのだ。
ミニマリストのその先へ
ミニマリストのその先の姿を考えてみる。
思考を「物」で支配されない。
物を手に入れることも、物を手放すことも、何を持つべきかも、一切考えない。
つまり「物」に対して思いを巡らせる時間がゼロであるということ。
そして、物に対して好きも嫌いも、いいも悪いもなく、ただそこにある物を使い、それが無くなればただ買い足すのみ。
言うなれば、「物」に対する圧倒的無関心。
それこそがミニマリストのその先で私が目指したい姿であり、本当の意味でやるべきことに集中できる状態であると私は考えている。
そう、綾波レイのように。

「アヤナミスト」と呼ぶのはどうだろうか

そんなん絶対流行らんわ
結び
今回は、「ミニマリストその先」について、私なりの考え方を述べた。
これまで何度も書いているように、同じミニマリストと言えどもその価値観は千差万別だ。
私の考えに全く共感できない人もいるだろう。
価値観も生き方も目指すべき姿も、人それぞれでいいと思う。
もしも私の考え方が少しでも参考になった人がいるなら、私としてもうれしい。